〈雨模様〉



「あーあ、つまんないの」  店の名はかすれて見えぬ赤提灯に降りかかる雨をぼんやり見上げ、 和子はくちをとがらせた。  ぼんやりした赤色の提灯の周囲だけ雨は金色に光って、それはき れいだとは思う。 しかしそんなことは次の瞬間、格子戸の向こうか ら聞こえてくる笑いさざめく声にかきけされてしまった。 「お父さん、ここに寄ったときにはごきげんで帰ってくるから、ど んなに楽しいところなのか見てみたいな、って思ったから、着いて きたのに」  うらめしそうに赤提灯越しの雨を見上げてみても、両親が店の内 から和子を呼ぶ気配はない。 「つまんないの」  すこし爪先がきつくなり出した運動靴、色あせた紺の車ひだのス カート、白いブラウスの袖へとにじんでくる雨露が肌寒い。  ぶるっとからだを震わせた和子だったが、相変わらず赤提灯の下 から動こうとはしない。ふたりが呼ぶまで、店のなかには絶対に戻 らないからね、とでも言いたげに、その大きな瞳は雨を降らせ続け る空をにらんでいた。 「あら……あなた。いつもの店まで迎えに、ですか?」  予報はずれの雨が降ってきたわね、などと母の葉子が言いながら、 雨戸を閉めたそのとき、廊下から黒電話が重たげに鳴る音がした。  会社帰りに行きつけの居酒屋で一息ついたまではいいが、いざ帰 ろうとしたら、止みそうもない本降りの雨。濡れて帰るのもなんだ から、傘を届けてくれないか。父、泰三からのそんな電話の内容を かぎつけた和子は、画用紙に絵を描く手をとめ、いそいそと、受話 器を置いた葉子の足許に寄った。 「お父さんのお迎えに行くの?」 「すぐそこだから、和子は留守番していなさいね」  二人分の傘を取りに行こうとした葉子のスカートを、和子は引っ 張った。 「和子も行く」 「ち、ちょっと……どうしたの、いつもならおとなしく留守番して いるのに」 「いや、わたしも行きたい。家を出て、横断歩道を渡って、二つ目 の角を右に曲がったところにある、おおきな赤提灯が出ているお店 でしょ? わたしね、あそこに前から行ってみたかったの。だって お父さん、そこに寄って帰ってきたときは、いつもごきげんじゃな い。鼻歌なんか歌ってさ。どうしてそうなるのか、わたし、前々か らずーっと知りたいって思ってた」 「そんなこと言ったって、だめなものはだめです。だいたい、子供 が出入りするような所じゃありません」 「いやだっ! 行ってみたいの」 おかっぱ頭を横になんども振って、和子はいつになくだだをこねて いた。 (お父さんがあの店に迎えに来て、なんて、こんなことはじめてじ ゃない! ……このチャンスを逃したら、お父さんがごきげんになる秘密を見 ることなんて、できない気がするんだもん)  「なんですか、三年生にもなって、そんな聞き分けもない!」 葉子がいい加減、本格的に怒ろうかとおおきく息を吸い込んだちょ うどそのとき、また電話が鳴った。 「あ、あなた……ごめんなさい。ちょっと和子が一緒に行きたいな んて、だだをこね出して――え? 和子も一緒に来ればいいじゃな いか、って? ちょっと、もう酔ってらっしゃるの? ……え、そ んなことはない?」  そのあとしばらく、泰三と葉子は何やら押し問答をしていたのだ が、結局は葉子が押し切られたのだろう。やや肩を落としながら「分 かりました。じゃあ、今からうかがいます」と溜息まじりに答え、 受話器を置いた。  その声を聞いた途端に和子は、葉子のスカートを手放して、部屋 へと駆け戻り、もどかしそうにレインコートをはおる。 (やった、やった、やった! お父さんをごきげんにする店を見ら れるんだ! しかも、八時半なんて―――クラスのみんなは、もう お風呂に入ったり、寝たりしている時間なのに!)  わくわくしている和子、ボタンを止める手がもつれてしまうのさ え楽しくて、ひとりくすくす笑ってしまうのを、どうしても止めら れない。 「そうそう、こんなときはお出かけ用の赤い傘! 黄色い傘なんて、 かっこ悪くて」  と、机の脇から和子は赤い傘を取り出して、もういちどにっこり と笑った。 「……ほんとに、呑んでごきげんになるにも、程があるわよ……和 子、支度なさい」  そして、廊下から声をかけたとたん、ボタンは掛け違えているレ インコート姿に赤い傘を抱え持ち、部屋から飛び出してきた和子を まじまじと眺め、葉子はおおきな溜息をついていた。  夜道とは思えぬほどにすたすた歩く葉子のあとを、和子はスキッ プしながら着いていった。  登下校のときに通るいつもの道なのに、今夜は全然、違って見え る。 (うわぁ……)  イチョウの若葉に降り注ぐ雨粒も、にじんだ街灯の光がなければ 分からない。和子と葉子のほかに人影もなく、朝な夕なにランドセ ル姿の子供たちで騒がしい道と同じとは思えなかった。そのなかに ただひくく響くのは、さわさわと雨が降る音と、ふたりの足音ばか り。 (とっても、しずか―――だけどそんなの、全然気にならないや) 「ほら、着いたわよ」  葉子が指さした先に、ぼんやりとひかる赤提灯が見えた。 (ああ、とうとう……とうとう来たんだ!)  以前、図書館で借りた本にあった台詞を、こころのなかで主人公 になりきって言いながら、和子はこぶしを握りしめて空を仰いでい た。 「……そのときは、すっごくわくわくしててたんだけどなぁ……ほ んとに。 天気予報がはずれてラッキー、雨降り大歓迎、なんて、思っちゃっ たよ」  赤提灯に降りかかる雨は、未だ止む気配も見えない。 「なのに今じゃ、あんときわくわくしていたあたしより、出かける 時はムッとしていたお母さんのほうが、あたしなんかよりずっと楽 しそうじゃない。なんだか、ずるいよ」 あーあ、と溜息をついてから、和子はちら、と肩越しに店のなかを うかがい見た。  カウンターで上機嫌になりながら、「おう、よく来たなぁ。遅かっ たから心配したぞ」 と、笑いじわがいつも以上にくっきりと刻まれている泰三の姿を見 つけたとき、和子はなんだかくすぐったかった。うながされるまま にその隣に座り、じいっと泰三の横顔をのぞき込む。そこに、いつ もと違う父がいる、と感じてしまうたび、むずむずした笑いがこみ 上げてくるのを、どうしても抑えられなかった。  そこまでは、たしかに楽しかった。  しかし、店のおじさんに「なにを飲むかい?」と聞かれ、壁にい くつも下がっていたメニューのなかでも、言葉の感じがかわいくて 気になったので、「ホッピーっていうのを、飲んでみたい」と素直に くちにしたとたんに、泰三とおじさんに大爆笑されてしまった。  そのときに、ほんの一瞬だったけれど、和子はなんだかいやな予 感がした。 「あれはお酒なんだよ、お嬢ちゃん。あと十二、三年たったらね」 と、店のおじさんにからかわれ、「いやいや、あと十一年だよ。ほん とにあっという間だからさ、和子」と、泰三が余計なフォローをし たせいで、どうやらおじさんが、和子を一年生と思っていたことが 分かってしまい、(そんなに子供じゃないのに)とむくれた。  でもそのあとで、おじさんが困ったように「ごめんな」と言って 出してくれた、鳥の唐揚げとオレンジジュースで、子供に見られて いやだったことも、いやな予感も忘れられた――のは、ほんとうに わずかなあいだだけでしかなかったことを、和子は思い知ることに なる。  木目が鈍い飴色の軌跡を描いているカウンター、焼き鳥の煙と混 ざり合うタバコの煙、店の奥には、この近くにある大学の学生とお ぼしき若い男性が七、八人いるのだが、そことカウンターのあいだ を、ビールがたっぷり入ったジョッキと、空のジョッキとが、何度 も行き来を繰り返していた。  時たま親子三人で外食するレストランとは百八十度も雰囲気が違 う居酒屋に、和子を連れて呼び出された葉子は、和子の目から見て もなんとなく落ち着きがなく見えた。 (お母さんがこれじゃ、わたしもこれを飲んだら、さっさと帰りま しょ、なんて言い出すだろうな)  しかし、その予想はおおきくはずれた。  なんとなくそわそわしている葉子に、「たまにはいいだろ?」と泰 三が、グラスビールを勧め、それを渋々と彼女がくちにしたのは、 ほんとうに最初の一杯だけだった。 「あら、たまには美味しいわね……あなた、もう一杯くださる?」  そのあとは二人とも和子を置いてけぼりにして、異様に機嫌が良 くなっていく。 結果、父は和子を連れてこいと言ったことを、母は和子を連れて きたことを忘れて、ビール片手にいつ終わるのか見当もつかない話 をはじめてしまった。 (ちょっと……なんなの、これって! お母さんったら、いつもは お父さんがダジャレを言ったって、あんなにふうに、けたけた笑っ たりしないのに……うわ。それを見てるお父さんまで、なんだかい つもの倍はごきげんになってる)  そこでいいタイミングと言うべきか否か、店のおじさんに、「奥さ ん、笑うとなかなか美人だねぇ」などとお愛想を言われ、ますます 機嫌が上り調子になるふたり。 だが、それを見ている和子のほうは、膨らみきった「ワクワク」 がふしゅうっ、と、情けない音をたててしぼんでいくのがいやにな るくらい、自分でも分かってしまった。 (あーあ……いつまでしゃべってるんだろ)  オレンジジュースもとうに飲み終えて、唐揚げも食べてしまった 和子はなんにもすることがないので、とりあえずぼんやり店のなか を眺めてみた。奥の席を陣取っている大学生の姿がちらほら見える けれど、彼らだけで、ゆうに二十人分くらいは騒がしくしている。 特に、すりきれた紺のジーパンにTシャツ姿の男の人が、ひとりで 五人分くらい、 はしゃいでいた。 (クラスの男の子も、たまにうるさいなぁ、って思うけど―――そ のうちお店のひとに、怒られちゃうんじゃないかなぁ? あんなに 大騒ぎしていたら) 「あっちのほうが、よっぽどわたしより子供みたい」  ぽつん、と和子が呟いた声が聞こえたのかどうか、泰三と葉子が 振り向いた。 (あ! その前に、お父さんが雷を落とすのかしら?!)  お父さん、本気で怒るとけっこう怖いからなぁ……と、自分が怒 られるわけでもないのに、首をすくめてしまった和子だったが。 「若いなぁ、俺も昔は、あんなだったなぁ。いや、ほんとに懐かし い」 「そうねぇ……そう言えば覚えている? 学生時代によく行ったお 店」  泰三はしきりに目を細めて「懐かしい」を連呼し、また葉子と、 和子が生まれるずっと前の思い出話に花を咲かせてしまう始末。  「ねぇ……帰ろうよ」と和子が父の服を引っ張っても、「もうちょ っとしたらね」の一点張りで、いっこうに席を立つ気配がない。 「……知らないっ!」 そして和子はくちびるをとがらせて、ふいっ、と店の外に出てしま ったのである。 「まぁだ、ふたりして昔の話、してるんだろうな……こんなことに なる、って分かってたら、家でおとなしく留守番してたのに」  あーあ、と言いながら、和子は大きく伸びをした。その手が提灯 に触れ、揺れたとたんに水滴がぱらぱらと降りかかってくる。 「ほんとにもうっ! こんな雨なんて、降らなきゃよかったのに!」  『お父さんのごきげんの秘密』を知りたくてわくわくしていたの に、雨が降ってくれてありがとう、なんて思っていたのに。  そう思えば思うほど、おおきな目に涙があふれそうになる。  だけどここで泣くのは、でも結局は仲間はずれになっている自分 を認めてしまうようで、くやしい。  こんなところで、赤提灯に降る雨をぼんやりひとりで眺めている 自分が、みじめすぎる。  鼻の頭をあかくしながらうつむいて、和子はしゃくりあげかけた 声を呑み込んだ。 「もう……っ……」  とうとう耐えきれずに、泣き出してしまった和子だったが――― その瞼に、淡い光がふいにさした。 「―――あれ?」  どうやら接触が悪いせいで、今まで消えていた街灯がようやく点 いたらしい。 「なぁんだ……びっくりした」  しかし、明るくなったことで、そのしたに人影のあることに影に 和子は気がついた。 (いやだ―――泣いているところ、見られちゃった!)  それが人攫いとか幽霊か、などと考えるより先に、泣いていると ころを見られてしまったかもしれない恥ずかしさのほうが先に立ち、 ぷいっ、とそっぽを向く。 (……でも、そこに立っているのが誰なのか、やっぱり気になる)  横目でちらちらと、和子はそのひとの正体を探ってみたが――― うかがうこと十回目にして、そこに立っている、すりきれた紺のジ ーパンにTシャツ姿をした男に、見覚えがあることにようやく気が ついた。 (このひと、さっきお店で、すごく楽しそうにお酒を呑んでいたよ うな気がするけど――なのになんで、雨に濡れて薄暗い街灯のした に、ひとりで立っているんだろう?)  その男が、赤提灯のしたに立っている和子に気づいている素振り は、まったく見えない。 しかし和子のほうは、街灯のもとに立っている男を、不思議そうに 眺めていた。 (いちばんビールを飲んで、いちばん元気に大はしゃぎしていたの に、こんなにつめたい雨にうたれてるなんて、どうして?) 和子は息を詰め、こんどはじぃっと、その男の顔を見つめる。  泣きたいのを我慢して、ただ黙って雨のなかに打たれているしか、 今はできない。  でもほんとうは、大声で泣きわめいてしまいたい。  その顔がそう言っているように、和子に見えたのは――街灯から したたり、頬をつたう雨が、この男が我慢している、涙のかわりに 見えたから、かもしれない。 (こんな顔、するんだ……とてもさびしいのに、とてもかなしいの に、泣くのをがまんするのは、子供だけじゃないんだ)  しばらく和子は黙ったまま、その顔をただじいっ、と見つめてい た。 (もしかしたらおとなって、子供よりもずっと泣きたいのを、がま んしているのか なぁ……) ふと、和子がそんなことを思った、そのときだった。 「――くっしゅん!」 「和子、なにしているの? もう帰るわよ」  男のくしゃみと、葉子が呼ぶ声がしたのは。  そしてその声で、現実に戻ったのは和子だけではない。 「あれ……きみ、もしかして、俺のこと見てた?」  街灯のしたに立っていた男が、赤提灯の下にたたずんでいる和子 をまじまじと眺めていた。 「あ……あの」  一気に恥ずかしくなり、耳の付け根まであつくなるのが分かる。 「まいったなぁ……っくしゅん!」  しかし、男のほうは言葉を続けられず、二度目のくしゃみ。 「あ、あの、そんなとこに立っていると風邪引いちゃうし、傘を貸 そうと思ってたんです!」  とっさに和子はそう言って、店の脇にある傘立てから、自分の赤 い傘を持ってくるなり、男の手に押し付けていた。 「――え」  恥ずかしさを隠そうとするあまり、ついつい怒っているような勢 いがついてしまった。それがまたよけいに、恥ずかしさをつのらせ る。 「でも」 しかし、男がその傘を返そうとするより先に。 「お母さん、呼んでるから」 和子は男に背を向けて、小走りに店のなかへと駆け込んでいった。 「あらあら、和子ったら雨なのに、外に出ていたの? ……こんな に濡れて」  葉子が慌てて店の主人からおしぼりとタオルを借りて、頬や頭を こすりはじめる。 (……あたたかい)  めまぐるしく動くしろい手と、タオル越しにつたわるぬくもりが 心地よかった。  だからよけいに、外で未だ降りつづいている雨のつめたさだけが 思い出される。  それなのに、あの男の人がここに戻ってくる気配は、ない。 (あのひとはまだ、雨に打たれているんだ―――ひとりで、泣きた いのをがまんした顔をして。それなのに……こんなにあたたかいと ころに、戻ってこないんだ)  雨のなか、赤提灯のしたで、仲間はずれにされたようなさびしさ を和子は感じていた。 (けれど、街灯のもとにいたあの人は、それよりもっとかなしいこ とがあるのかもしれない)  ふ、とうつむいてしまった和子に、それまで懸命に和子の髪を拭 いていた葉子が気づく。 「ごめんなさいね、ついつい話に夢中になりすぎちゃった」  それを、ほったらかしにされて和子が拗ねているのだと感じたら しい葉子は、ばつが悪そうな声をかけてきた。  それが、和子のなかにある感情の堰を切ってしまったのだろう。  俯いたままの姿勢で、和子はしゃくり上げながら泣き出していた。 「や……ちょっと、どうしたの? 和子ったら……ねぇ、泣きやん で」  事情がまったく飲み込めな―――というより、ほんの少し、昔話 に花を咲かせすぎて娘をほったらかしにしてしまったとはいえ、こ んなに泣かれるとは思っていなかった葉子はただおろおろして、和 子の頬をおしぼりで拭いては、肩を揺すっているばかり。  しかし、葉子にそうされればされるほど、和子のなかでは街灯の したに立っていた、あの男の人の姿が浮かんでくる。  あたたかい光を眺めながら、でも、ひとりで雨に打たれていたあ の姿を。  鈍い銀色に光る雨が涙のかわりに頬を濡らしていても、泣かずに、 泣けずにいた、かなしそうな姿が。 「ねぇったら……」  困惑しているけれど、それでもどこかあたたかく感じられる声を 聞きながら、和子はただ泣きじゃくっていた。 「ずいぶん、遅くなっちゃったな」  泰三がのんきに傘の向こうの空を見上げる。  和子が赤提灯のしたに立っていた時よりもいくぶんか弱くなって いるけれど、雨はまだ降り続いていた。 「ほんと……まさか帰りぎわに、和子にあんなに泣かれると思って なかったし」 「ちょっとほったらかしにしすぎて、ごめんな」  泰三と葉子が、赤い傘をさしながらあとを着いてくる和子に声を かけた。 「……ううん。わたしのほうこそ、あんなに泣いたりしちゃって」 「そうか、そんなにさびしかったのか」 「――うん」  両親の背中をちら、と見上げ、赤い傘を一回転させてから、和子 は後ろを振り返った。  また明かりが消えてしまった街灯のもとに、誰かが立っていたと しても、すぐにそうと分かりはしないだろう。  けれども和子は、まだあそこに、あの男の人が立っていることを 分かっていた。  傘立てに和子の赤い傘を返したあとも、ひとり、雨に打たれてい るのだと。 (雨、ぜんぜん止みそうにもないのにね)  そう思いながら和子は傘をずらして、雨をその額に受けてみた。 「……もしかしたら」  しかし、呟きかけたその声は。 「こらこら和子、傘からはみ出ているぞ。風邪を引くから、傘のな かにちゃんと入って」  泰三の声が遮った。  「はい」と返事をしながらも、和子はなおも、雨がその顔を伝う にまかせたままでいる。 (もしかしたら雨って、泣けない誰かのために、降るものなのかな ぁ……)  そんなふうに思ったとたん、それまでは、なんとも感じていなか ったりした雨なのに、ほんとうに涙のようだと、そうとしか思えて ならなくなった。 ―――あの夜から、色さまざまな傘越しに眺めやる、雨の見方が変 わった。  そんな自分に、和子は気がついている。  けれどもそのことを、ほかの誰も気づいてはいない。  ほかの誰かにも、言うつもりなども毛頭ない。  そのことはずっと自分だけの秘密にすると、そう、和子は決めた のだから。

Fine.

企画参加作品 →突発性競作企画第14弾 in rain...

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