〈Sweet Nothing〉




「ねぇ、ひとが楽観主義者か、それとも悲観主義者かを見分ける方 法、あなたはご存じ?」 頭上から突然聞こえてきた声に、俺はのっそりと目を開けていた。  この酒場に―――世界の中心とうたわれながら、そのくせかぎり なく『世界の果て』を思わせる砂漠に、ぽつんとたつ酒場に足を運 ぶようになってから、もうどのくらいの時が過ぎたか。  そんなことさえ、もはや当の俺にも分からない。しかし、寡黙な 店主とごくたまに言葉を交わしつつ、幾度となく杯を重ね、酔いつ ぶれ砂に埋もれても、この場所でこんなにはしゃいだ、それでいて 華やいだ声を聞いたことはついぞなかった。  二、三度まばたきをして砂を落としてから、俺は声がしたほうを 眺める。  まず見えたのは、色あせた絨毯と脚のひくい円卓。そしてその中 央に置かれた、透明な硝子の瓶だった。そのなかで波打つ、あわい 黄金色の液体は、ちょうど瓶の半分まで満たされている。そして、 それを囲むように横座りしている三人の、鄙にはちょっと稀な、美 しい女たち。  黒い髪を馬の尻尾さながらに結い、淡い藍色の地に細糸さながら の流れる水をあしらった文様の衣装をまとっている。あるいは姉妹 なのだろうか、雰囲気は違えど、面差しにはどことなく似通ったと ころがうかがえる。さらによくよく眺めていると、帯にほどこされ た刺繍があるらしく見えたが、いかんせん距離もあり、酔いが回っ たままの目では、細かい図案までは分からなかった。 「楽観主義と悲観主義の見分け方、ねぇ……あなたには分かって?」  三人のうち、真ん中に座る女が眉間に皺を寄せて考え込んだ。臈 長けた風情でありながら、そうしていると神経質そうにとがってい る、そんな印象だけが残る。 「そんなにはっきり、分かるものなの?」  これは、右端に座る女だ。どことなく少女めいた面影が色濃い、 あどけない顔をしている。話を聞きながら、ときおり指を、鋏で糸 を断つように動かしているのが見えた。 「ええ。わたし、はじめてその言葉を聞いた時に、なかなか上手い ことを言うものだと感心いたしましたもの」  この話題を振った、左端に座る女がひときわあかるい声で言う。 しかし彼女とは対照的に、残る二人の女は、どうしてそんな難題を、 と言わんばかりに顔をしかめていた。 「さっきからあれこれ考えているけれど、口惜しいことにまったく 分からないわ!」 「……ねぇ、もう降参いたしますから、意地悪せずに、どうぞ答え を教えてくださらない?」  左端に座る女はにぃっ、と唇の端をゆがめて笑うと、手にした足 付酒杯を高々とかざす。そのまま二人を交互に見比べながら女は、 芝居がかった口調で言葉をついだ。 「『このグラスに入っている葡萄酒を見て『ああ、もう半分しか残っ ていない』と嘆くのが悲観主義者。『お、まだ半分も残っているじゃ ないか』と喜ぶのが楽観主義者である。』 ……いかがかしら? まったく、そのとおりとは思わなくて?」  ――なるほど、たしかに上手いことをいうものだ。  俺は女の声を脳裏で反芻しつつ、まだ卓上にあるだろう酒杯の中 身に想いをめぐらせる。  ――さて、それは杯の半分もあったろうか、それとも……? 「その言葉を当てはめるなら、私はさしずめ楽観主義者でしょうね」  しかし俺がそのことを思い出すより先に、女の声がした。俺の意 識はまた彼女たちの会話へと戻り、酔って膜が掛かったような耳を そばだて、話を聴き逃すまいとつとめてさえいる。  感じからして、左端に座る女が口火を切った声の主らしい。  彼女はあかるい口調のままで、さらに続けた。 「この黄金色をした葡萄酒を、糸紡ぎに暮れる一日の終わりに傾け ながら、あなたたちと他愛もないお喋りをして、笑いさざめく。た ったそれだけのことかもしれないけれど、それだけで、わたしのな かには、明日からまた糸を紡ぐための力が満たされてくるのがわか るの。  ええ、いくらだって糸を紡いでみせますわ、そう、あなたの望む ままに。そんな啖呵だってきれてしまいそうなくらいに。そのとき にはもう、この店に来る前には、くたびれきっていたことなんて、 すっかり忘れてしまっているわ。  そして、わたしをその気にさせてくれる葡萄酒ときたら、まだこ の酒瓶に半分も残っているじゃないの! まだこんなにあるなら、 当分たのしめる。  そう思うたび、わたしはほっとさせられるのよ。いつだって」  彼女のうたうような口ぶりに、遠い昔の記憶が揺り動かされる― ――そう、幼い日に母の膝元で聞いた糸紡ぎ歌にどこか似ていた― ―円環を巡り糸は紡がれ、それは織られてこの身を覆う、あたたか い衣に変わる。けして楽な暮らしではなかったけれど、そんな日々 を母は、郷里の女たちは、やはりここにいる女たちと同じように、 一杯の葡萄酒とお喋り、そして歌にまぎらせて笑いながらやり過ご していた。  いつだって、『まだまだ酒はあるんだ、楽しまなくちゃ!』などと、 男勝りのはしゃいだ声をあげながら。  今となっては遠い記憶の果てにしかない、あたりまえの日常。や さしくて、なつかしい日々。  そう感じたとたんに酒浸りの俺のからだはうち震え、涙がひとす じ頬を伝っていった。  そして、身のうちにゆっくりと染みていく思いに目を閉じる。  ――よかったな、あんたを楽しませてくれる酒は残っているんだ な、まだまだ、半分も。  ほどなくして不似合いな笑みが、俺のこけた頬に浮かぶのが、分 かった。 「瓶で波打つ葡萄酒を如何に見るかで、楽観主義か悲観主義かを推 し量る―――なるほど、たしかに面白いわね」  かたい口調でそう言ったのは、真ん中に座る女だ。 「でも、その論法で言ったら、わたしは悲観主義者ということにな るかしら……もともと、その気はあったのかもしれないけれど」  くっ、と自嘲の笑みを唇の端に浮かべたまま、真ん中に座る女が 話を続けた。 「さきほど姉さまが仰ったように、わたしもこの葡萄酒を片手にお 喋りを楽しんだあとには、明日から糸を染めるための力をいただい てはいるわ。けれど――そうして姉さまが紡いだ糸は、いつだって ぬけるように白い。だからこそわたしは、できるだけその白にふさ わしい、きれいな色で糸を染め上げたいと願っているのに、その想 いは裏切られるばかり……。  それが積もればいいかげん、こんな思いをしてまで糸染めなんて したくない、そんな思いが、頭をよぎらぬわけでもないわ」 「中の姉さま」  どうやら相当にくるしそうな表情を見せたのだろう、いちばん右 端の女が震える声をかけていた。 「心配してくれるのね……でも、だいじょうぶよ。今はまだ、こう して日の終わりに三人そろって、このあまくてやわらかい口当たり の葡萄酒を片手に、他愛もないお喋りで笑い合っていられるから。  そうでなければどうして、日々のこのつらいわざを耐えられるだ ろう……って、わたし、このところ切実に思っているの。  それなのにこの葡萄酒ときたら、もうこの瓶に半分しかないなん て。三人で呑んだら、もう今夜にでも、わたしたちで呑みきってし まいそうな量じゃない。そしてもし、今夜にでもそうなってしまっ たら、そのあとわたしたちが、こうして集まるきっかけもなくなっ てしまいそうな気がして―――あげく、糸を染めることさえやめて しまいそう。  この、瓶に半分しか残っていない葡萄酒を見ていると、そんな気 さえしてくるわ」  真ん中に座る女の声に、抑揚はほとんどなかった。それを聞くう ちに俺の頬からは笑みが消え、つい先刻まで感じていた想いまでも がゆっくりと萎れていくのが分かった。  そう、俺もまた残り半分の酒を(もう、これっきりしかない)と いう思いをして眺めたことがあるからだ。  ――己が才も認められず、さりとて思うような仕事さえできず。 それで精進に勉めていれば、すこしはましになれたものを、憂さ晴 らしの酒に溺れた自分の瞳は壷に半分残った酒を見て、もう半分し かないと嘆きの涙をこぼす始末。 (そんな俺とあんたとじゃ、壷半分の酒をすくないと嘆く深さは、 きっとまったく違っているかもしれねぇ。だけどな……分かるつも りではいるんだぜ、あんたのその、やるせなさ。 そいつは日々に、消しようのない憂いを抱えていなければ感じねぇ、 って、俺にも身に覚えがあるからさ) 「……あなたがこの葡萄酒を、そんなふうに眺めていたなんて」  左端に座る女が、心底から驚いたといわんばかりの、大袈裟な溜 息をついた。 「せっかくの葡萄酒よ、そんなふうにかなしく考えたりせずに、存 分に楽しみなさいな。何せ、まだ半分も残っているんだから」  抱え込んでいる苛立ちを理解しているのかそうでないのか、あま りに鷹揚にすぎる物言いに、当然ながら、真ん中に座る女の声がと がるのが、分かった。 「わたしは、お姉さまのように、簡単になんて考えられないわ!」  その物言いが、よほど癇に障ったのだろう。真ん中に座る女のと がった声につられ、左端に座る女の口調もまた、きつくなる。 「簡単、なんて聞き捨てならないことを言うわね。わたしだって、 あなたが思っているようなこと、考えないわけではないのよ――ま っさらに白い糸を、わたしはあとどれだけ、紡ぐことができるの だろうか――ってことだって!  だけど……そんなかなしいことなど考えたとたんに、わたしの手 のなかで紡がれる糸は、その白を失ってしまう。だからわたしは、 日々のなかで、ちいさくてもいい、できるだけ楽しみを見出すよう にしてきたのに――この葡萄酒だって、そう。  『もう半分しかない』なんて思うより、『あと半分あるじゃない』、 そう思ったほうがずっとずっと、しあわせな気持ちでいられる。  そんな単純明快なことが、どうして、あなたには分からないの!」  さっきまでのおおらかさをかなぐり捨て、最後のほうは涙まじり に、左端に座る女は声を揺るがせていた。それに呼応するように、 真ん中に座る女の声もまた、胸のうちで渦巻いている思いを抑えか ねたかのように、震える。 「ええ、分からないわ……姉さまがわたしの、糸染めのかなしさ、 つらさ、やるせなさが、ほんとうのところでは分かってらっしゃら ないのと同じくらいに。それ以上に、わたしがどれだけこの時間を 楽しみにしているかも!   お姉さまが紡ぐ糸は、ほんとうに見惚れてしまうくらいに真っ白 だわ。それを見るたびにわたしはいつだって、わたしが染めあげる 色が、もとの糸に恥じず、うつくしくありますように、と、そう願 わずにはいられない。  それなのに……どうしてなの?  最近では、もうほんとうにわずかしか糸に色が染まらないことの ほうが多いのよ。たまに色がうまくのって、長く染められていった としても、最後のほうになると、せっかくの色が濁ってしまう。  そんなことばかり続けば、せっかくの白い糸を、ほかならぬこの わたしが汚してしまった、どうしたってそんなふうにしか思えなく なってしまうのに!  そんなわたしのつらさ、やるせなさを癒してくれたのが、この黄 金色の葡萄酒と、それを片手に、三人で仲むつまじく、お喋りをし て笑い合っている時間なの。  だからこそ……わたしはほんとうに怖いのよ。  この葡萄酒がなくなってしまったら、わたしはどうやってこの思 いをまぎらわせたらいいのか……糸を染めることをやめてしまいた くなるほどに追いつめられた気持ち、葡萄酒がなくなってしまった あとには、どこに持っていったらいいのか、分からなくなってしま いそうで……」  真ん中に座る女は、とうとうすすり泣きをはじめてしまった。そ の肩を、右端に座る女が軽く叩いて慰めるのが、すこしだけ見えた。    それに対し、左端に座る女は、真ん中に座る女の言葉に少なからぬ 衝撃を受けているようだが、それでもかけようとする慰め言葉や、 さしのべかけた手を、はたしてそのまま向けていいのか、逡巡する ように、身体を震わせていた。  どのくらいのあいだ、三人は無言でいただろうか。  俺はどれだけのあいだ、三人のことを、固唾を呑んで見つめてい ただろうか。 「上の姉さま、中の姉さま―――わたくしの話、聞いてくださる?」  沈黙を破ったのは、右端に座っている女だった。 「わたしは、自分が悲観主義なのか、はたまた楽観主義なのか、そ んなことはいっさい分からないの……お姉さまたちの話を聞いてい る、いまでも。  ただいつも、わたしの目の前にあるのは、上のお姉さまが紡ぎ、 中のお姉さまが染めた糸。そして染め上げられた色の端と端とを、 わたしは鋏で断ち切るだけですもの。  それでもときおり、ああ、いま手にしている糸のなんと短いこと、 なんて思うことはあっても、次に目にした糸が、今度は長く染めら れていれば、前に思ったことなど忘れてしまう。  わたしはそんな日々を、上のお姉さまが紡ぐ糸のあるかぎり続け ていくでしょうし、続けていくことが生涯かけて、成さねばならぬ 業なのでしょう――結局のところ、わたしを含めて姉さまたちも、 糸をなくしてしまったら、存在さえ覚束ないものになってしまうよ うな、そんな気さえしているから。  だからわたしは、上の姉さまがここにある酒を糧にして糸紡ぎが できる、というのなら、それはそれで喜ばしいことと思っているわ。  それだけでなく、中の姉さまが、糸に色がよく染まらないことを かなしく思う気持ちも、ぜんぜん分からないというわけでも、けし てない。  だから……ねえ、お姉さまがた。もう酒瓶に残った葡萄酒を、『あ と半分ある』と見るのか、『もう半分しかない』と見るのかで、言い 争うのはやめにしません?  そんなことより、せっかくのおいしい葡萄酒を片手にお喋りをし て、たくさん笑って、日頃のいやなことを吐き出してしまって、明 日からまた、糸に向かい合うほうがいいような気がするわ。  そこにどんな思いや見方があるにしたって、結句わたしたちは、 糸によって生かされている身であることに、なんの変わりもないと いうのならば」  かたちのいい耳を、そして頬をあかく染めながら、左端に座る女 はそう言いおさめていた。 あのあどけなさが残る顔をして、そのくせこの状況ではいちばん、 まっとうなことを。 「まぁ、いちばん末の妹が生意気を―――でも、かわいらしいあな たがそう思うのでしたら、この場で楽観主義か悲観主義かを言い合 うのはもう止しにしましょう。それで良くて?」  左端に座る女が、真ん中に座る女に問いかけた。 「お姉さまが、そう仰るのでしたら……」  そこまで言ったあとで、女は口ごもる。  だがそのあとしばらくして、その唇がこう動いていたのを、俺は はっきりと目にしていた。 『でも―――わたしはこの酒瓶を見るたびに、あと幾度ばかり、溜 息をつくのかしら。かといって、今夜のうちにすべて飲み干してし まおうなどと思うほどには、自棄になってはいないわ……まだ』  俺は砂のなかでゆっくりと、女になりかわったように、溜息をゆ るゆると吐いてみた。 (分かるぜ、酒瓶を見るたび感じちまう、あんたのやるせなさは。 だけど……あんたの姉さんや妹が言っていることが、分からんわけ でもないんだ)  日が昇ったらまた、あらたに白い糸を紡ぐために葡萄酒を傾ける 宵。それが『まだある』と思うからこそ、楽しいときもまだ続く、 そう思っている―――思おうとしている、左端に座る女。  そして日々の業に、楽しさやつらさを考えまい、それがあるから こそ生かされている身に、ゆるされたのが、葡萄酒を傾けて歓談す るこのひとときなのだから。そう受け止めている、右端に座る女。 (たかが一杯の酒だのに、あるときは楽しい酒がまだ続くと喜びな がら杯を傾け、あるときには、憂さばらしにも足りぬと、その少な さを心底から嘆く。だけど、そのどっちがいい、悪いとかじゃあ ねぇし、どちらかの見方を、生涯貫けるほど、単純にはいかねぇの が世の常さ。  だけども……溜息をついたって何したって、今宵の酒は自棄で呑 む酒じゃねぇ、しかも一座でそう思っているってんなら――そいつ はけして、悪いこっちゃねぇや)  俺はもう一度、今度は腹の底からおおきくふう、と息をついた。 「じゃあ、あらためて乾杯しましょう。わたしたち三人を慰めてく れる、この葡萄酒に」  うっとりと微笑んだ右端に座る女が、三つの杯に酒を満たした。 (だいたいまだ、酒瓶のなかには酒が……あるんだからよ。とりあ えずは)  そんなことをふと思った俺のほうまで、なんだかくすぐったい気 分にさせられる。それと同時に、酔いがぶり返してくるのが、分か った。 「乾杯――わたしたちを生かしてくれる、この黄金の葡萄酒に」  三人の女たちの声がなかよく和したのを、柄にもなくうれしく聞 いた、こう思ったのを最後にして、俺の意識はまた、砂に呑まれて いった。 「……起きてください。砂に喰われちまいますよ」  腕が引っ張られ、ずるり、と身体が動かされた感触で、ふたたび 俺は目が覚めた。  どうやら風が出始めて、泥酔した俺がそのまま砂に埋もれていく のを見かねた店主が助けたらしい。覚束ない手付きで砂をはらい、 砂にまみれた口でもごもごと礼を言いながら、俺はのそりと立 ち上がった。  そのままゆっくりと、女たちがいたほうへと歩を進める。すでに 彼女たちの姿はなく、円卓の中心に、もうあとわずかで底が見える ほどに減った酒瓶が転がっていた。 「おいおい……なんだよ。あんだけ酒が『まだこれだけある』とか、 『もうこれしかない』とか、さんざ言い合っておきながら、結局の ところは、ほとんど全部呑んじまったじゃねえか」  だがそれでもなお、酒瓶の底に未練げにゆらめく一滴がある。  そいつが、やけに目について仕方なかった俺が、 「ええい鬱陶しい、酒の一滴は血の一滴なんだ。どうせだったら最 後の最後まで、飲み干しちまえばいいじゃねぇか――古来の詩にだ ってある、『日がな一日、酩酊するまで酒を呑むがいい、いかな酒飲 みとて、墓の上にまで酒は来やしないのだから』ってな」  いささか乱暴な声音でそう言い捨てると、酒瓶の栓を抜いて、そ の最後の一滴を――楽観主義を標榜しようが、悲観主義で武装しよ うが、いまはそんなことはどっちだっていい。俺のこの目に映るの は、酒瓶の底にへばりついている、ただの酒が一滴。それ以上でも 以下でもねぇんだから――そんな凶暴な思いとともに飲みほすべく、 手をかけたそのときだった。 「いけません、この酒は……彼女たちのものですから」  穏やかな声で、店主が制すると、間一髪のところで、俺の手から 瓶を奪い取る。 「なにすんだよ。一滴くらい、お相伴にあずかったってバチは当た るめぇによ!」  そんなことを酔った勢いに任せて叫んでいた、俺の目の前で―― 店主は、手にしていた水筒から、またその瓶にあらたな酒を注いだ のだ。 それも、酒瓶のきっかり半分のところまで。 「……な……あんた、いったいなにしてんだよ!  それじゃあ、さっきまであいつらがさんざ言い合いしていたことな んて、まったく無意味になっちまうじゃねぇか!」  円卓の上で、酒瓶の半分まで注がれた葡萄酒が、俺を嘲笑うよう に波打った。 「たしかに、あなたの仰るとおりですね」  激高した俺に対し、店主はまったく動じる気配も見せない。その まま、きっちりと酒瓶の口に栓をしたあと、淡々とした口調で話し 始めた。 「ですが、これでいいんです―――すくなくとも私は、これでいい と思っています」 「なんで」  だが、俺の問いに対して、店主は。 「あなたは、彼女たちが紡ぎ、染め、断った糸そのもの美しさ、そ してそれが行き交うごとに見せる綾のうつくしさを、ご存じではな いでしょう。  私はただ、それを見ていたいだけなんです―――いえいえ、ほん とうのところは、ここでこうしている今この瞬間にも、たしかにそ の一端を見てはいるのですけれどね」  あくまでも穏やかなまま、そう答えた。その言葉に、なんだか含 みがある。酔いが冷めきってない頭の片隅で、ふと、そんなことを 感じた途端、よぎっていた単語。 「! もしかして、あの三人こそ……いや、まさかそんな」  しかし、その言葉が口をついて出る前に、店主の語る声がやんわ りとそれを征していた。 「それは、あなたのご想像にお任せしましょう―――私はただ、彼 女たちにまだ、糸を手放さずにいて欲しいのです。だから、彼女た ちがめいめいに抱える憂さをすっかり忘れてしまったといわんばか りに楽しげに酔いを深めていくうちに、いつしか酒瓶の底にあと一 滴しか残ってないほどに呑みきってしまった中身を継ぎ足してきま した。  彼女たちが家路についたあと、あなたが先ほど見ました通り、か っきりと半分ほどの量を」 「どうして」 「あくまで私の思いこみなのですが、こうしたことはなんとなく、 半分かっきりでいいような気がするんです。たっぷりすぎてもあり がたみはないし、さりとて半分よりもすくないと、いかに楽観主義 でも『まだこんなにある』なんて思えなくなってしまいますから」 「そんなもんかねぇ……だいたい、自分たちがいかほど呑んだかく らい、あの三人だって忘れちまうとは思えないんだが」  ふと、わいた疑問を、今度はためらうことなく口にすると、 「そのへん、どうしたことなのでしょうかね……たしかにこの葡萄 酒、かなり口当たりはあまいのですが、それに比するようにかなり 強いことは強いんですけれどね。そのせいでしょうか、彼女たち、 前にいらした時に自分たちがどれほどこの酒瓶の酒を呑んだのか、 いつもすっぱり忘れてしまっているんですよ。  おまけに、前夜に集まったときには、どんな話をしたかというこ とさえも。だから、ここしばらくはあの問答が続いてますよ。酒瓶 に半分の葡萄酒を眺めながら、はたして自分は、楽観主義なのか悲 観主義なのかって」  店主はたのしげな顔をしてそう答えたあと、なんとも言いようが なく黙ってしまった俺に向かい、すこしだけ独りごとめかした言葉 をついだ。 「無理に理解しようとしなくてもいいんですよ。私が、誰に頼まれ たわけでもなく、勝手にしていることなのですから――もしもいつ か、左端に座る長姉が、酒瓶の中身を見るなり『もう半分しかない なんて』と嘆き、真ん中に座る次姉が『あと、たった半分を飲み干 してしまえばいいのね』と微笑み、右端に座る末妹が、結局のとこ ろは糸に縛られている己が存在を疑うようになったら、そのときは ……いや、そんな日のこないようにと、こころの底から祈っている からこそ、こうして余計なお節介をしているのかもしれません――」  しかし、そんな店主の言葉は、風に乗って巻き上げられた砂にの って消えてしまう。 「彼女たちがその手にしている糸を……業を、手放すことのないよ うに……か」  俺はもういちど砂のなかに身体を投げ出して、彼女たちが座って いた席を見上げるようにして眺めなおした。  まっさらな白い糸を紡ぎ、その糸に映える色を願いながら染め、 鋏を入れられ切り離されて、そこではじめて一本の糸ができあがる。 それはこの地を巡りながら、あるときは重なり、あるときは離れな がらもまた別の糸と出逢い、ふと気づけば一枚の織物を形作ってい るのだろう。  彼女たちがその織物の図案をどこまで知っているかは、知らない。 まして俺が、その存在をどこまで感じているかなんてことは、もっ と分からない。  だけど、それを構成する糸を紡ぎ、染め、断つ彼女たちがくたび れてきってしまったら、彼女たちはそれきり指をとめてしまうだろ う。そうなった途端に、きっとこの織物は音も立てずにくずおれて、 かつて美しい図案を成したあかしさえ残さず消え逝くにちがいない。 (――そいつは、なんともさびしいやな……どこまでも深い虚のな かに、果てなく落ちこんでいくように)  だから、店主は葡萄酒をつぎ足すのだ。  奥底では憂さを抱える彼女たちが、くたびれきってしまわないよ うに。  そしておそらく、店主が感じとっているだろう、この世を覆う、 たった一枚の織物がどう彩られるのかを、見続けたいがために。 「分かったよ……こいつにはもぅ、手はださねぇ」  そして、そんな思いを嘲笑うことなどできない俺が、いまここで 言えることは、これだけ。 「ありがとう、ございます」  店主がふ、と浮かべた照れ笑いに、俺もちょっとばかりだが、は にかんでみせた。 「……おっと、そろそろ店仕舞いなんだろ? じゃあ、俺も行くわ―――またしばらくしたら、来るよ」 「どうぞお気をつけて。またのお越し、お待ち致しております」  深々と頭を下げる店主を一瞥してから、俺はまた、星が降りそう な砂地を歩き出す。    ここから先どこまで、いつまで歩いていくのかなんて、実のとこ ろ、当の俺にだって分かっていやしない。  だけど、いつかまたあの酒場で、あの三人のやりとりと、店主の お節介を見てみたい。 そんな気は、さっきからずっと、している。 (で、いつかまたあの三人を見たときに―――めいめいが手にする 糸との関わり合い方を、そしてあの黄金の葡萄酒を目にしたときの 感じかたが変わっているだろうか? いや、それとも?)  幾歩も歩かぬうちに浮かんだ想像に、なんとなく身体がむずむず してくる。  それがあんまりくすぐったかったせいだろう、俺はにやっ、と笑 いを浮かべて振り返ると、眼下に遠くかすんでいく酒場のテントに 向かい、やたら勢いよく手を振っていた。

Fine.

企画参加作品 → 突発性競作企画 第15弾 『世界の名言』


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