〈声を、聞かせて〉




  『みなさん、こんばんは。   ただいまの時刻は午前0時を、二十秒ほどまわったところです。  今宵も定刻通り“B.T.A.D”の時間がやってまいりました』  最新式のパソコンが二台、そのほかにもプリンタにスキャナ、フ ァックスやコピー機に包囲され、床にはケーブルがうようよと這っ ている部屋。そのなかで、妙に浮いている古めかしいラジカセから DJの声が聞こえてきた途端、僕はあわてて、マウスをつつく指を 止めていた。  『ここ数日は雨続きでしたけれど、今日……いえ、もう昨日で したっけ、珍しく晴れ間が見られましたね。   それなのにわたしときたら、ほんとうについさっきまで、放送 局の資料室にカンヅメになっていました。   今夜、番組でかける曲を探していたんですが、ちいさい放送局 とはいっても、ほんとうに文字通り、山積みになっているCDを 引っ張り出して聞き比べていたら、やっぱり疲れちゃって――そ れで、ちょっと気分転換、で外に出て、空を見上げたら、ほん  のり黄色の十三夜の月が浮かんでいました』  この“B.T.A.D”――“Between Twilight And Dawn”の頭文字をとった番組名だが――のDJは、女 性。ラジオ越しに聞こえてくるその声は、高すぎもせず、さりとて 低くもなく、女らしいまろやかさとやさしさを感じさせてくれる。 (一度でも耳にしたら、けして忘れられない、とっても耳に心地よ い声だな)僕はいつだってそう思いながら、ラジオに耳を傾けてい た。  そんなに彼女の声と言葉につられ、僕は、かれこれ七十二時間も 閉めっぱなしのカーテンと窓を開け、夜空へと視線を向ける。   『十三夜の月……って、ぱっと見ると、もしかしたら満月? のようにも見えますけど、よぅく見たらまだ、円をなぞりきって ないかたちをしているんです』  そこにはたしかに彼女が言ったとおり、ほんのりと丸くなりかけ ていながら、両端はまだとがったままでいる月が出ていた。   『わたしは、この十三夜の月が好きで――すごく、へんな言い かたかもしれませんが、ほんの一瞬でもいい、完全な円を描きた いと思いながら、それでもまだ、とがったところが隠せないでい るところ……あとちょっと、まだ成長中、という感じがものすご くするから、よけいにそう思うのかもしれません。   ……なんだか十三夜の月の話をしていたら、またスタジオを抜 け出して、月を見上げたくなってきてしまいました……けれど、 今はまだ、番組は始まったばかりですし……はやる気持ちはとり あえず、しずかな曲でクール・ダウン、させてしまいましょう』  彼女はいつも、淡々とした口調で、ごくささやかな日常のできご とや、見聞きしたものの感想を語ることのほうが多い。しかし、 今夜、すこしばかり笑みをにじませていたその声は、はなやかさは あるけれど、はしゃぎすぎでもなく、密やかなしずけさが潜んでい るような感じがした。  これまで耳にしてきたなかでも、ベスト3に入れたいほどのすて きな声に、僕はうっとりした顔をしていたに違いない。  ほどなくしてスピーカーから流れてきたのは、また静かでやさし い感じのするピアノの音色で――月が出ている夜に聞くには、まさ にうってつけなだと、僕は思っていた。それをBGMに、僕はあら ためて今夜の月を見上げなおし、彼女が語ったかたちをもういちど ゆっくりとなぞる。  真夜中の十二時、こんなセンチメンタル満載なことをしたのは、 二十九年生きてきてはじめてのことだった。  やがてゆっくりとピアノの音は遠ざかっていき、いよいよその音 も消えかけたころ、まるで内緒話をするような、彼女の囁く声が聞 こえてくる。   『このラジオをBGMにして、今夜の月を見ている方がいらし たら……嬉しくなってしまいますね。  DJ冥利に尽きるとは、こういうことをいうのでしょうね』  その一言に、僕は、その声で語られる以外の情報は何も知らず、 むろん現実には直に会ったこともない彼女が、(そうだったら、嬉し いな)と想像していた行動を取っていたリスナーであったことに、 顔をほころばせ、ひとり、ガッツポーズを決め込んでいた。   『……さて、今夜も一枚だけ、お葉書を読ませていただきます。    ペンネーム、R.Oさんからですが―――このラジオ、いつ も仕事帰りに聞いてます。このあいだの紫陽花の話、面白かっ たです。あれからついつい、角を曲がった先にある紫陽花は、 何色をしているのか、想像しながら歩くようになってしまいま した―――    あ、そう仰って頂けると、すごく嬉しいです。    こちらも頑張り甲斐があります』 「ふうん、今度、パソコン買い換える時にでも、やってみようかな ……紫陽花の色当て」  でもその前に、ネットで紫陽花がどんな花かを調べないとな、そ う思いながら、僕の耳は、一心に彼女の声を追いかける。  『えーっと、ここでわたしの疑問なんですが、この番組をお聞き にきになっているみなさんは、深夜族――あ、これはずいぶんと 古いことを口にしてしまいましたね、年齢がバレてしまったかし ら……もっとも今時は、夜中の十二時なんて深夜じゃないと言わ れてしまいそうですが、このラジオを耳にしながら、どう過ごさ れているのでしょうか?   今日お葉書をくださったR.Oさんのように、仕事帰りに、と いう方のほかにも、おやすみまえの一時、お付き合いくださって らっしゃるのか、もしかしたら、勉強中……いえ、まだまだ、お 仕事中、という方もいらっしゃったりして……』 「ピン、ポーン。貴女の想像通り、僕は仕事中です」  耳だけは彼女の声を追い、視線はモニタに向かい直した僕は、口 笛を混じえながら彼女の声にひとり、応じる。  『もし、まだまだお仕事をされていらっしゃる皆さん、こんな遅 い時間まで、ほんとうに、お疲れさまです。  そしてこの放送を聞きながら、お仕事をされているのだとしたら ――たとえば運転をなさっているとか、パソコンのキーを叩いてい たりとか……そんな感じで目や身体は酷使しているけれど、耳だけ はラジオを聞くだけのゆとりがある、というようなお仕事をなさっ ているのでしょうか?   ――今、このスタジオにカンヅメのわたしとは逆に』 「そうそう、またまたご明察。僕はね、四六時中、モニタとにらめ っこしながら図面を起こしているんだよ――自分の部屋に籠もりっ きりで、機械仕掛けのオモチャのアイディアを練りながら、ね」  愛用のデカいマグカップになみなみと注がれた、ぬるいインスタ ント・コーヒー。それをときどき口にしながら、スピーカー越しの 声に返答している二十九歳・独身男――なんて構図は、端から見た ら、いろんな意味でヤバいことこのうえないことくらいは、一応、 自分でも重々承知しているつもりだ。  けれどもインターネットが普及したおかげで、わざわざネクタイ を締めてオフィスに出向かずとも、自室がそのまま仕事場となって しまう。データや連絡も、パソコンや電話を介してやりとり可能な このご時世、当人としては別に壊れてはいない(つもり)でも、 いまの僕のように、機械越しの声についつい音声応答してしまう人 間だって少なからずいる、と思う――いや、僕がひとり、勝手にそ う思っていたいだけかも、しれないけれど。 『いつもわたしは、このラジオを聞いてくださっているみなさん にとって働いているあいだの、あるいは眠りにつく前の、つかの 間、一時の息抜きになればいいな、と思っていますが……え、わ たしもこんな時間に、働いているじゃないか? って?』 「そうだよ、そうだって! 貴女だって、僕と同じ」 “僕と同じ”。  その言葉に我知らず力が籠もっていたように聞こえたのは、けし て幻聴ではないように思う。  暗い部屋にたったひとりきり、ケーブルの向こう側にある現実― ―「君のそのオモチャは、どれだけウチの会社を儲けさせてくれ る?」、そう、四六時中問いかけてくる――と戦いながら、僕は新し いオモチャの設計図を描く。  こうした作業は、本来ならばオフィスに定刻通りに赴き、上司や 同僚と連係プレーを取りつつこなしていくのだろうとは思う。でも 僕はもともと、誰かと組んで何かをする、という行為に向く性格で はなかった。そのことに、就職してから割合すぐに気づかされ、当 時の僕は激しく自己嫌悪したものだ――学生時代、あれほど熱望し た大手のオモチャ開発メーカーに、就職を決めていたというのに。  そして三年前、会社がオフィスに縛り付けない勤務形態を試験的 に取ってみる、という企画に僕は飛びつき、自宅勤務を真っ先に申 し込むと、それは思いも寄らぬほどあっさりと受理された。    その決断とそれ以後の生活について、僕自身は特にこれといった 感情も感傷も持ってなかった――はずなのに。  どうして毎晩、午前0時に、自動的にラジオのスイッチが入るよ う、僕はセットしておいているのか。  いや、それだけじゃない。  どうして僕は、ラジオの声にあんな気恥ずかしい答えを返すだけ でなく――僕のその声には、ただの幻聴なんかじゃ片づけられない ほどの力――感情が籠められていたのだろう?  『でも……わたしは引っ込み思案のくせして、誰かに話を聞いて 欲しいと願ってもいたから、こうしてDJになったわけですし― ―それに、音楽を聴くことも好きだったから、どちらかといえば やってみたいと望んでいたこと、好きなことをミックスさせて、 こうしているわけですけれど……   でも、おそらくこのラジオを聞きながら仕事をされているみな さんのなかには、けして好きじゃないけれど、それが仕事だから 仕方なく、ということで、そうされている方も現実にいらっしゃ ると思うし、あるいは好きで選んだことだけれど、思っていた以 上にしんどいな。と、今この瞬間も思っていらっしゃる方もいる と、わたしは思います。   そんなかたから見ると、わたしなんて、ただの甘ちゃんにしか 見えないんじゃないかな、としか思えない時もあって……この三 十分の番組を、好きなように構成しているわたしが語る言葉なん て、ものすごく軽すぎるんじゃないか、とか考え出すと、ちょっ と……。   ――いえ、わたしの番組を聞いてくださっているみなさんがい てくださることも、頭のなかでは分かっているんですけれど……  なんていうのか、心のどこかでは、わたしの言葉なんて、ほんと うの意味で、だれかに「届いて」すらいないんじゃないか……そ んな思いがふと、よぎってしまうこともあるんです』  いったい、どうしたのだろう?  今夜の彼女は、それまでの彼女とは違い、ずいぶんと浮き沈みが 激しい。つい五分前までの、十三夜の月を見た話をしたときの嬉し そうなそれとはうって変わったしんみりした語り口に、僕はモニタ ではなく、ラジオのほうに、熱い視線を思わず注いでいた。  『わたしはわたしなりに、こんな気ままにやっているような番組 でも、みなさんにとって、一時でもいい、息抜きになれたらいい なと思って、真面目にやっているつもりです。   なのに、さっき話したような思いがときどきよぎると、胸を深 くえぐられるような気がして――ほんとうに、自分が好きでやっ ているはずのことなのに、どうしてこんなにしんどいのかなぁ、 って、ひとり膝を抱えて座り込んだまま、うつむいて泣いてしま いたくなるんです、そんなときは……   しかも、そういう感情って、たとえば今夜みたいに月がきれい で、幸せな気分を味わったあとを、ふいに狙ったように訪れたり もして、それが、腹立たしくなってきたりもして――』 「好きなことだけど、しんどい……か」  その一言に、僕は深い、深い溜息で答えていた。  このパソコンで、昼夜の別もなくオモチャのアイディアを設計図 に起こしては、メールで送る日々。その単調極まりない反復作業だ って、結局のところは、僕が好きでやっていることだと思う。すく なくとも返答は「ボツ」ばかりでも、このことを「もともとは好き だった」と過去形で語るにはまだ早いと思っている――いや、そう 思いたいだけなのかも、しれないけれど。  それでも送信する前は、これでオモチャの世界に革命の風を吹き 込んでやる! と、いつも意気込んでいる。けれどもそれが「ボツ」 のたった一言で、あっさり闇へと抹消されてしまう現実が続けば、 やはり僕だって、正直、しんどくなる。 ボツを喰らった至極最悪の気分を晴らすために、いざ自棄酒を―― ―なんて展開さえ、僕はからっきし下戸なので、そんなことはとて ものぞめない。せいぜい、自棄ブラックコーヒーをがぶ飲みし、胃 を痛めながら、それでもパソコンに向かってしまうのが関の山だ。  ともかくも、そんなことばかり繰り返されている、僕の日々。 「だけど、貴女はちゃんと“自分の仕事”を果たしている。僕は、 そう思うよ」  こうしているだけでは決して彼女に届かない声を、僕はスピーカ ーに向かってかける。 「僕とは違って、ね」  自宅勤務に切り替えて三年、すくなくとも自宅であれば誰に煩わ されることもなく、自分の裁量で、ひとり“自由”にアイディアを 練り放題、そう思ったからこその今の生活。    だけどこの三年で、僕はすくなくとも彼女のように、不特定人数 不明の「誰か」に一時の息抜きや慰めを提供できる立場になったと は、とてもじゃないけれど言えない。  真剣に書いた企画書が採用されたことなど一度もないのに、ほん の冗談で起こした図面――カラオケボックスで手軽に使えるボイス チェンジ・マイクだけが、唯一「ボツ」の二文字を見なかったきり だ。しかもそれは自宅勤務をはじめたばかりの頃の話で、さらに言 ってしまえば、その後商品化されたという話は、未だに聞かない。    それが、認めたくないけれど、ここにいる僕の「現実」だ。 「だけど、貴女は――ちゃんと貴女の言葉で、その声で、この番組 を聞いている僕に、このうえない息抜きと……慰めを与えてくれて いるんだよ。すくなくとも、貴女の声を聞かなかったら」  僕はひとりきりでどんどん疲れて、疲れて―――疲れ切った挙句 にどうなってしまうか、想像するだに怖いような事態を引き起こし ていた、かもしれない。  『ほんとうに自分が好きで、はじめたはずなのに――そんなこと を一瞬たりとも、胸によぎらせるわたし自身が、嫌いになってし まうこともあって……』  そのまま、彼女の声がふ、と途切れた。  彼女を今、支配している感情。それには僕も、痛いほどに身に覚 えがある。    好きで、この仕事を自分は選んだはずじゃないか。 だから毎日、新世代に相応しいフォルムと艶消しのメタリックカラ ーを備え、かつ会社を儲けさせてくれそうな機械仕掛けのオモチャ の図面を引いているはずじゃないか、と。  しかし一方で、その作業に慣性と惰性とが交差していることも、 僕はどこかで感じてはいた。  惰性と慣性。  どちらも昔から、軽蔑していた漢字二文字だった。なのに、いつ しかそれを自分のなかに巣くわせていた僕自身に、唾を吐きかけ、 殴り倒したくなるほど、自分のことが嫌いになりそうになる。  そんなことを誰かに吐き出せたら、あるいは誰もがそれぞれに悩 んでいると聞けたら、すこしは楽になれるだろうか、そんな思いが よぎったこともある。けれども実際には、自宅勤務を選んだあたり から、かつての友人たちとも疎遠になってしまい、僕が声をかける 相手は機械だけになっていた。  今の生活に疲れているんじゃないか、と思うことそれ自体が暗い 気分を誘発し、それに支配されたまま、モニタのなかでかたちにな らない図面――けして「明日」へと繋がる術を持たない設計図―― 描き散らしては憂鬱になっていた、ちょうどそのころだった。    僕が、彼女の声に出逢ったのは。  手持ちのCDも聞き飽きたし、ネットからダウンロードしたい音 楽も特になく、何か別の息抜きがしたい――そんなことを思いなが ら、背もたれにもたれ掛かって伸びをした僕の目に飛び込んできた のは、どこで手に入れたかも分からないほど、古びたラジカセだっ た。  もう、CDもカセットテープも聞けないけれど、ラジオぐらいは 聞けるだろう。そう思った僕は、のろのろとした手付きでアンテナ を立て、適当にチャンネルを回しはじめた。  しばらくは無音とノイズの繰り返しで、さすがに壊れていると思 ったのだが――ふいに、聞こえてきた声があった。   『みなさん、こんばんは。  ただいまの時刻は午前十二時を二十秒ほどまわったところです。  今宵も定刻通り“B.T.A.D”の時間がやってまいりました』  彼女の声は高すぎず低すぎず、女らしいやさしさに満ちた声をし ていて――身体の隅々までいろんな感情が張り詰めて強張り、疲れ きっていた僕から、すべての余分な力を抜けさせるほどの、十分す ぎるインパクトがあった。  そのまま三十分、彼女は静かな口調のまま、日常のささいなでき ごとや、それについての感想を語り、嬉しそうに葉書を一枚紹介す る。その合間に、耳障りでない音楽が二、三曲流れるだけの番組を 聞き終えた頃には、僕はすっかり彼女の声、語り口に魅せられてい た。  それ以来、僕のラジオの周波数はここで固定したまま、けして動 かしてなどいない。そしてあの夜、彼女の声にはじめて出逢ったあ との僕自身も、ほんの少しだけかもしれないけれど、ただどうしよ うもなく暗いだけの気持ちから、片足を抜け出せたような気がして いる――それは、ほんとうに彼女の声のおかげだと、僕はしみじみ 感謝している。なかなか、面と向かっては伝えられないけれど。  だから。 「どうか、そんなふうに自分で自分のことを、嫌いになったりしな いで――」  僕の、そしておそらくこのラジオの前で、彼女の番組を聞いてい る誰もがこのとき、多かれ少なかれ、こんな風に思っていただろう ――いや、そうに違いない。  そう僕は確信しつつも、固唾を呑んで、彼女の声が聞こえてこな いラジオをじっと見つめていた。  『――あ、なんだかすごくブルーなお話、してしまいましたね』  僕の、いや僕だけでないリスナーたちの思いが彼女に届いたのか どうか、定かではないけれど――いや、ここは、僕たちのたくさん の思いが届いたのだと、敢えて思いこむことにする――彼女の声は、 いつもの調子に戻っていた。  それを聞いて、僕はおおきく、安堵の溜息をつく。  おそらく彼女の声を聞いていた、僕以外のリスナーも、そうした だろうと思いながら。  『夜中にブルーな話なんて、ほんとうにごめんなさい……で、ブ ルー、でふと思い出したのですが、今夜最初の話題、十三夜の月 と、ちょっと絡めて――英語に“ブルー・ムーン”という単語が ありまして、その意味はできない相談、というそうです。   “できない相談”……そう、こんなブルーなことを口にしてい たって、じゃあ、このラジオの放送を辞めたいのか、と問われた ら、わたしは――「“ブルー・ムーン”」そう答えますね。   ちなみに、同名のカクテルもありますが、甘さの奥にあるほろ 苦さが、いつまでも舌に残る味がします――小洒落たカクテルバ ーでナンパした女性から、このカクテルが出されたら……たいへ んお気の毒なのですが』 「……そう、だよな――そうカンタンに、辞められる、そんなわけ ないよ。  僕だって、貴女だって」  好きで選んだはずの仕事。そのさなかにあるはずの僕はまだ、自 分のしたい「仕事」というものを、成してなどいない。そのことに 対する焦りや苛立ちは、ときおり、こころの片隅をちくりと刺した りもするけれど――  でも、こんな気持ちは、おそらく一生、抱え続けるのだとも思う。 「自分はこれが好きなんだ」、「それを生涯かけて続けたい」と周囲 に宣言したそのときを境に、今だけでなく、これから先もずっと。  だけど、僕はすくなくとも今は、しあわせだと思う。  彼女の声に、こうして出逢うことができたのだから。  そして彼女もまた僕と同じで、自分の好きなことを貫いて生きて いこうとする真っ只中で、焦ったり悩んだりしているのだと、今夜 こうして聞くことができたのだから。  『そういえば、明日――じゃなくて、もう今日、ですね……未だ に日付変更線を越えることに、言葉が慣れてないのですが……今 日から、いよいよ本格的に梅雨入りする模様です。   今夜は十三夜の月を見られましたけれど、この夜が明けたら、 月ともしばしのお別れということになるのでしょう。   けれども、また次に月を仰ぎ見たときには、どんなかたちを見 せてくれるかしら? 新月か満月か、それとも次の十三夜?   そんな予想を立てながら、わたしは夜ごと続く雨をやり過ごす ことにします――雨のあとに現れた姿が、うっすらと細く、たよ りない新月のようであったとしても、また時が経てば、元気に満 ちた姿になる月――その途中にある十三夜の月、この放送局を出 たあとにまだ見られるとしたら、今夜のわたしはこれまで以上に いろんな思いを重ね合わせながら、月を眺めてしまうだろうな。    そんな予感が、今からしています』  僕は、もう一度窓を開け放って、十三夜の月を眺めた。  これから満ちたりた円を描く前、とがった姿をあらわにしたその 姿。 「それは、今の僕と貴女のようだね」  ラジオからは、低く流れる静かな曲が流れてくる。  十三夜の月を見上げながら、僕は、次のオモチャのアイディアを 練っていた――それまで、会社でならこれを出せば売れる、と、ま ったく見当違いの売れ線ばかり追いかけて、頭のなかを妄想でいっ ぱいにしていたような企画書とは違う。  今夜、彼女が垣間見せてくれた、十三夜の月のように成長途中の 自分。もがきっぱなしの自分自身に疲れてしまった時、ふとそいつ に出逢えたなら、少しだけほっとできるような、そんなオモチャ。 そして彼女の声のように、その存在がそばにあったら、自分が思っ ている以上に、嫌なことだらけ現実のさなかにあっても、きっと踏 ん張れるような――  そんなオモチャを、作ろう。  それが、疲れ切っていた僕を癒してくれた彼女への恩返しになる んじゃないかな、なんて、そんなことを思いながら、僕はマウスに 手を乗せた。   『では、みなさん、おやすみなさい――また明日、午前零時に お会いしましょう』 「さーってと、どんなオモチャにしようかな?」  僕はラジオの電源を切り、窓を閉めると、深呼吸をひとつだけし て、パソコンのモニタへと向き直った。   瞳を閉じる。   瞼の裏に浮かんだのは、十三夜の月だ。   真円に限りなく近づいていながら、まだ、とがったモノを秘め ているそのかたち。   そこに、重なったメタリックの影がある。   見覚えのある色だけれど。   ……ああ、思い出した――それは。 「どうしちゃったの、今日は……いつになくイライラしていたっつ ーか、ずいぶんとブルーな語りしちゃってさ。  いっくらここが地方のちいさなFM局で、誰が聞いてッかなんて 分かりゃしないとは言ってもねぇ、ああいう愚痴まるだしの話題、 次からは控えてよね。  この番組、何気に固定ファンがいたりする、そこそこの人気番組 なんだから。その辺もうちょっと、ちゃんと自覚してよね」  オン・エアの明かりが消えた途端に、マイクを見上げるような姿 勢でデスクに突っ伏してしまったわたし。その頭越しに、ディレク ターの不満そうな声が聞こえてきた。柔和という名の化けの皮がは がれた、地のきつい声がいつになく耳障りだ。  だけど、それ以上に耳障りなのは。 「申し訳ありませんでした。次からは、気をつけます」  ディレクターに殊勝にも頭を下げながら、そう返していたわたし 自身の声のほうだった。 「そうそう、そのマイク越しの語りにリスナーが求めているのは― ―無味乾燥に過ぎていく日常のなかにある、他愛ないけれどかわい らしいもの、うつくしいもの……こんなハゲたオッサンが何を抜か す、なんて、アンタは思っているかもしれないけれどね、僕ら放送 局サイドと、“B.T.A.D”のリスナーが求めているのは、とに かくそういったモノなんだってこと、ちゃんと分かってる?」  荒涼殺伐としたニュース、根本的には代わり映えしないスキャン ダルに彩られた世知辛い現実。そこに背を向けるように、ひろがる 空や海、季節ごとに色を変えていく緑を眺め、もの思うこと。いつ もとは違う風景を、自分の足で探し、見出すたのしさ――そんな要 素を前面に押し出している“B.T.A.D”。  その姿勢が、当世流行りの癒しブームとマッチし、固定のリスナ ーまでも獲得していると証明されたからこそ、わたしがこうして、 番組を持たせてもらえていることくらい、重々、承知している―― たとえそれが、地方のラジオ局の深夜放送、三十分の番組とはいえ ど。 「ともかくきみは、その目で見たきれいな風景を、ただ淡々と発信 してくれていればいいわけ。きみの信条、とか、発展途上のきみの 内心なんてものは、リスナーだってお呼びじゃないんだからさ、 ね?」 「……気をつけます。今夜は、まことに申し訳ありませんでした」 「そうそう。じゃなければ、この企画を採用した意味がないんだか らさぁ、分かる?」 わたしはその言葉に適当な相槌を打つと、唇を噛み締めて――昔の ことを、思い出していた。  今から、三年前のこと。  当時OLだった私は、たまたま昼休みに見たタウン情報誌で、こ の局がラジオ番組の企画募集をしていることを知った。  つい今夜、つれづれなるままに語ってしまったが、わたしはもと もと、人見知りで引っ込み思案のくせに――いや、あるいはそうだ からかもしれないけれど、誰かに自分の話を聞いて欲しいと、ここ ろの底では渇望していた。  けれども、誰か生身の人間と対面で会話しようとしても思うよう に言葉は口をついて出ず、さりとて当世流行のチャットでもキーを 打つのがあまりに遅くて、当意即妙の気の利いた応答すらできない。  だからこそ、その渇望は肥大化し、時には自分でもそれを持て余 すほどに膨れ上がり、出口を求めていた。  その頃からだったろうか、それまで何の気なしに聞いていたラジ オ番組――正確には、DJへの見方が変わりはじめたのは。  リスナーを身近に感じながら、実際には誰かと対面し、会話を交 わす機会はすくないように思う。それでいながら、情報を能動的に 発信する側にある、それがDJという存在なのだ。そんなふうに、 あらためて認識したわたしは――やっぱり大それたことにはちがい ないのだろうけれど――自分も、そうなれたらいいかもしれない、 などと思いはじめていた。  そんなときに、こんな募集広告を見つけるなんて――  これはきっと、何かのサインではないか。 (この企画、思い切って挑戦してみようか――自分が日々、いろい ろと思うことをそのまま、ほんとうに好きなように積み上げた、そ んな番組に仕立て上げてみて……)  ダメモト、と打ち消すそばから、もしかしたら……などという甘 い期待が、脳裏をかすめる。 (それにもし、万が一にでも、わたしが出した企画が採用されたら ――退屈で代わり映えしないOL生活から、すっぱり足を洗うきっ かけになるような気もするし)  わたしは家に帰ると、早速、自分が通勤途中で見聞きしたことを 柱にして台本を起こしはじめた。  その一週間後には、家にあるだけのCDをひっくり返し、ああで もない、こうでもないとうなりながら曲を選びだし、募集広告を見 た二週間が過ぎた頃には、どうにかできあがった番組案を吹き込ん だ一本のカセットテープを、放送局へと送っていた。  それから半月もたたぬうちに、答えは予想外にあっさりと出た。  プロデューサーと名乗る男から電話があり、わたしの作ったテー プが気に入った、真夜中で申し訳ないけど、三十分ほど番組を持っ てみないか? そんな内容を、早口で告げられたのだ。  単純に企画が通ったら、後のことなんて考えずに会社を辞めてみ るのも悪くない。その程度にしか考えていなかった、それなのに、 いきなり番組を、と言われたわたしは、喜ぶよりも先に頭が真っ白 になってしまい、受話器を握りしめたまま、ただ頷くばかりだった ――    しかしそれから三日後、スタジオに呼び出されたわたしが、にわ かDJとして無我夢中で語り追えたあとに見たディレクターの顔は、 これ以上ないくらいの仏頂面に変わっていた。 「僕はきみが作ってくれた番組案、けっこういいセンまで行くと思 っているのよ。なんていうのかな、癒しブームにノッているような 感じだけど、グッズまみれな雰囲気でもなく、ネタ自体をほんとう に身近なところで拾ってきてて……なんていうのか、地元商店街の お肉屋さんのコロッケ、みたいな感じの雰囲気が漂っていてさ」 「は、はぁ……」 「でも、やっぱりカセットテープの音質程度じゃ分からなかった、 ってのもナンだけど―――僕、きみの声って落ち着いた低い声をし ていると思ってたの。  だからさ、シロウトとはいえ、そのまんまきみに番組のDJをや ってもらったほうがいいな、と思っていたんだけど――でもやっぱ り、こうして設備が整ったところで聞いちゃうとさ……どうも、そ の声と口調が、ねぇ……」  そう。  わたしの声は、女性としては珍しく、低すぎるほどに低い。  ただ低いだけなら、それもまた持ち味と押し切れたのかもしれな いけれど――電話口で十中十、男性と間違えられるくらいなのだ。 しかも、方言のイントネーションが未だ中途半端にこびりついてい るせいで、興奮すると語尾がいきなり尻上がりになる。そのあたり を口調がきついと、標準語に耳慣れた他人には聞こえるのだろう。  それなのに番組の話題は、タチオアイの花が咲いているのを見る と夏の訪れを感じるとか、夕空に浮かんだ二日月がぞくっとするほ ど切っ先が鋭かったとか――ある意味メルヘンチックなことばかり。 ミスマッチなことこのうえないのは、想像せずとも明白だ。 「なんか、こう……言っちゃ悪いんだけどさ、マイクを通してても、 良いところを探すのがむしろ難しい声、なんてものがあるなんて― ―正直、僕は思わなかった」  言っちゃ悪いと思っているなら、言うな。  内心で毒づいてはみたものの、やはりもともとの声や語り口が、 こうした公共の電波に乗せるには、あまりどころか、かなり良くな い。いや、はっきり言うなら、むしろ悪い、ということくらい、わ たし自身、よく分かっている。 (やっぱり、毎日が単調で退屈でも、わたしはOLをやっているの が分相応、ってことか……)  しかし、会社にはとっくに辞表を出してしまった身。いまさら古 巣には戻れないし、さりとて再就職も相当に厳しい。 (生まれ持った声がラジオと合わない、というなら、もうこれはし ょうがないよね……地方の小さなラジオ局とはいえ、企画が通った んだし、いい夢見させてもらったと思って諦めよう)  どうせもともとは、軽い気持ちで応募したのだから――と、わた しのほうは、すっかり諦めモードに入っていたのだけれど、    「だけど、僕としてはこの番組企画はお蔵入りさせたくないし―― できればそのまま、きみにDJをやってもらったほうがいいと思う んだけど……でもいかんせん、声がなぁ……」  と、ディレクターはまだ、未練がましくも優柔不断なことを口に し続けていた。     でも所詮、いくらうなったところで何の解決策も思い浮かばない のでは、どうしようもない。  三十分後、とうとうディレクターは顔を真っ赤にし、観念したよ うに唇を突き出した顔のまで、口を開こうとした、まさにそのとき だった。 「いやぁもう、参っちゃったよ。スポンサー探しにオモチャの会社 に行ったらさ、逆にこんなものを押しつけられちゃって――」  社長が、マイクをかるく振り回しながら、スタジオに入ってきた のは。 「しゃ、社長……それ、マイクみたいですけど?」 「いや、なんでもね、相手サンの言うところによれば――これ、春 の新商品っつぅことで企画したらしいんだけど、なんでも、ボイス チェンジ機能がついたマイクらしいんだ。でもさぁ、いまどき気の 利いたカラオケ機種なら、そんなのとっくに搭載しているってのに ねぇ―――だいたい、目立つ機能なんてそれだけみたいだし」  かかか、と笑う社長に、ディレクターは熱い視線を向ける。 「社長……いま、何とおっしゃいました?」 「あん? このマイク、オモチャ会社で押し付けられたって」 「いや、そうじゃなく」 「こいつにボイスチェンジ機能がついている、みたいだぜ、ってト コか?」 「はい……そのマイク、どんな感じで声が変わるんでしょう?」 「ん〜? そういやオレもまだ試してみなかったなぁ。  そんじゃぁ、期待にお答えして、ここで自慢の喉を披露してやっ か!」  マイクを取り直すと、やおら社長は歌い出したのだが――間延び したドラ声とはうって変わった、惚れ惚れするようなバリトンに変 わっていたのだ。  そして、そのマイクをじぃっと見つめるディレクターの瞳の色が 変わった――ように見えたのは、きっと、わたしの錯覚ではないだ ろう。  だってわたしもそのとき、かれ以上に瞳の色を変えていただろう ことは、想像に難くないから。 「たしかにあのとき、ディレクターがこのマイクと出逢わなければ、 こうしてわたしが自分の番組を持つなんていう奇跡は、けっして巡 ってこなかった」  そんなことは分かっている――けれど。 「これだけ自分の好きなように語り、好きな音楽を選んでかけるだ けの番組を持たせてもらいながら、何をぜいたくなことを言ってい るんだと、ディレクターには怒られそうだけど――」  今いるこの場所に、わたしを導いてくれたマイク。それを、人差 し指に力を込め、わたしはつついた。 「こんなことを願ったりするなんて、ほんとうに思いも寄らなかっ た。たとえ身の程をわきまえろとそしられても、わたしは、わたし 自身の生まれ持った声で――」  誰かに、話しかけたかった。  誰かに、語りかけたかった。  わたしの見た日常の風景を、わたしの好きな音楽のことを。  ――でも、そんなことを願えば。 「このスタジオから出て行け、なんて言われるだろうけれど――そ れは“ブルー・ムーン”、できない相談、ってものよ」  マイクから唇を遠ざけて、わたしは、生のままの声で独り言を口 にした。  マイクを掴んだのと同時に手にした、居心地の良い自分の居場所。 それをどんなことがあっても奪われてなるものか、と思うのも自分。 けれども、そのマイクに軽い憎しみを時折おぼえ、自身の生まれ持 った声でリスナーに語りかけたいと望んでいるのも、また自分―― 「だけど、ほんとうのところ――これから先、わたし、どうしたい んだろう……?」  その答え、二十九年分の人生経験では、まだまだ見つかりそうに もない――そんなことを思いながら、わたしはもういちど、今度は 軽めにマイクをつつく。マイクの放つ硬質なメタリックカラーが、 わたしのなかで浸食しだした影に溶け込んで、暗い色を増したよう に、ふと見えた。 「ほらほら何してんの、さっさと帰って寝ないと、明日の放送に差 し支えるぞ! それに、きみのだいすきな十三夜の月だって、いつまでも出ていな いぞ」 「はぁい、ディレクター――お疲れ様でした。では、また今夜、お 会いしましょう」 「おぅ。もう少ししたらオレも、月見でもしようかな、って思って たりすんだよ。今夜の放送聞いてから、一応な」  くすっ、ととりあえず声だけで笑い、わたしはスタジオを後にす る。そのまま地下駐車場に直行し、数台も止まっていない車のなか でも、いちばん小さな軽乗用車に乗り込んだ。  すっかりその気になっているディレクターには悪いけれど、しば らくわたしは、月を眺めたりはしないだろう――まして、今夜のよ うな、十三夜の月なんて。  ほんの一瞬でもいい、完全な円を描きたいと思いながら、それで もまだとがったところが隠せないでいる月。  けれども月は、時が満ちれば完全な円を描く。 そのあとは次第に痩せ細っていくとしても、また、時が満ちれば円 い光を、夜闇に眩しいほどに放つ。 「……でも」  今夜のわたしには、そんな月が羨ましくも妬ましい。  とがったところを隠せずにいるところは同じだとしても、これか ら先、円くなろうか、鋭利になろうか。わたしは、どっちつかずの ままでいるのだから―― 「もし、今夜のわたしの放送を聞いて、月を眺めてみた。 そんな声を聞かせてくれる、誰かがいたら……」  そう呟いたのと同時に、わたしはハンドルに手をかけたまま、う つむいてしまった。 「ねぇ――わたしの耳に、聞かせてよ。今すぐここで――わたしが また、十三夜の月を見てみよう、って気持ちになれるような声を、 聞かせて……ねぇ、お願いだから……誰か」  わたしの頬に、伝う涙。 「声を、聞かせて……誰かさん。 あなたの生まれもった、その声を。 マイクや機械で弄りまわされた“声”なんかじゃない、あなたの、 その生のままの声を、この、わたしに……」  まぎれもないわたし自身の低い声で呻きながら、わたしは、月光 さえも届かない駐車場の片隅で、ただひとり泣き暮れていた。






Fine.



企画参加作品 →突発性競作企画第13弾 機械仕掛け

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